ぱちぱちぱち(火の爆ぜる音)
「はっは、許せ許せ。みな年寄りの道楽じゃ。」
「山道で見ず知らずの木こりに刀を向けることがですか。」
「ふっ、誰にでもするというわけでもないわさ。
おお、そこの魚はもうよさそうじゃ。勝手にやってくれ。
目は見えぬようになったが、お陰でそれ以外のところは
随分と働きがよくなっておってな。
特に耳と気配を感じることは鋭敏になっておる。
自分の前を歩く人影は確かにひとつなのに
どうも誰かと話している様子とあれば、
誰でも気にかかろうというものだ。」
「ああ…」
「誰と、話しておったのだ?」
「颯(かぜ)と。」
「何と言った?」
ひゅううううう(小屋の戸を揺らす風の音)
「飛騨の山の疾風と、話しておりました。」
「ほおーっほほ。これはますます、愉快になってきたな。」
ぱちぱちぱち
「おお、魚は半焼けか。まあいいわ。
おぬしが面白いと思うたわけは、もうひとつある。」
「なんでしょうか。」
「おぬしの歩き方は、一度は剣の道を志した者のものだ。
いや、そうではないな。
戦国の修羅場をくぐり抜ける中で、自然と身についたものであろう。
腕は確かと見えた。
だが、気配を読むと刀も脇差も差しておらぬし、
侍の姿もしておらぬ。これは不可解なり、とな。」
「ふふ、それでもまだ、いきなり斬りかかる理由には、少々余るように思われますが。」
「ほほぉ、そうかな。
それではもうひとつ、申すとしようか。」
「なんなりと。」
「侍の姿をしていないばかりでなく、
おなごが男の姿をしていることに興味があった。」
きゃるーん。(なぜそれを!)
ひょろーーー(笛・心象的に不審さを表現する音)
「残念ながら、この二つの目はもはや何の役にも立たん。
だが、そうしたことが却ってよいこともあるものだ。
おぬしの場合で言えば、この頭が感じているのは
おぬしの歩き方、身体が発する気配、立ち居振舞いが発する様々な音、
そして匂いだ。」
ばさ(立ち上がる綾之介)
「いや、待て!
もし気分を悪くしたなら謝る。このとおりだ。
どうも、若いおなごなどと話すのは安土のご城下以来でな。
舌が滑るわ。はっはっは。」
「いえ……そうですか。」
「まあ、たんと見かけぬ変わった御仁だったのでな、
腕のほうはどうかと試させてもらったわけだ。まあ気分を直されよ。
酒はどうかな?」
「いただきましょう。」
「そうこなくてはな。
はっ、それとも、こんな老いぼれ一人、
いざとなれば酔ってはいても撥ね退けられるという読みか?」
「そんな。」
「はっはっは。だがわしは匂いがわかると言ったろう。
匂いで人の容姿も大体はわかる。おぬしは相当の美女、じゃな。」
「お戯れを申されますな。さ、どうぞ。」
「うむ。」
「悲願があり、その日までは女を捨てております。」
「ふむ。もしよければその悲願、語ってはくれまいか。」
「酒の肴にはしとうござりません。」
「はっははは、よいよい、おなごはそれくらいはっきりしている方がな。
いや、おなごを捨てているわけだから男か。
ふふふ、どうもややこしい。んむぅ、まあいいわさ。
どうせ、目の 見えぬこの身には、どちらも同じこと。
せいぜい別嬪を想像して、酌をしてもらうとしよう。
はっはっはっは。」
ぱちぱちぱち
「しかし、おぬし。寂しくはないのか?」
「何がでござりますか?」
「いかに男の身なりをしようと、おなごはおなご。
よき男と結ばれて、家を守るが本懐であろう。
その幸せを捨て、いかなる事情か、人も通わぬ山野をさすらうとは。
寂しくなければ嘘であろう?」
「寂しいなどと思ったことはありません。」
「なぜだ。」
「この身は確かにひとつでも、心には多くの友が住んでおります。
友との旅ならば、なんで寂しいことがありましょう。」
「その旅、女の幸せを捨てても成し遂げねばならぬほどのものか?」
「我らには課せられた宿命がありました。
あるものはその宿命をまっとうしようとして死に、
あるものは宿命に逆らおうとして死にました。
いや、我らに限らず、戦国という世に生きた者の大部分は、
そうした生き方を強いられたのかもしれません。
そして私もまた、宿命の中を生きております。
逆らうでもなく、従うでもなく。
その宿命のために失われた命がある限り、
私ひとりがそれから逃れることはできません。」
「なるほどなぁ。
ん、ぅえー。(酒を飲み干した)
おぬしの本懐、もしや亡くなられた我が殿に関わりがあることではあるまいか?」
「織田、信長公に?……いいえ。」
「そうかな?
これは笑い話と思ってくれても結構だが、
我が殿にあらせられては、人に非ずという噂がある。
ふふ、織田家家臣のわしが言うのがおかしいか。
だが、殿が亡くなられて十年にもなる。人の口に戸は立てられぬもの。
いまでは殿に近かった者の大半がそのことを承知しておるわ。」
「人にあらず、とは一体?」
「やはり、興味があろう?
いやいや、これは意地がわるかったな。
おぬしの本懐と関わりがあろうとなかろうと、興味をもつのは当たり前の話。
朝になれば忘れてくれるというのであれば、話もしよう。」
「お約束しましょう。」
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