『山間を渡る颯』
綾之介の短刀が怪物に刺さったと見るや、
激しい光が放たれ、怪物の姿は一瞬にして消滅した。
後に残されたのは、綾之介ひとりである。
「は、う、ああっ…」
「綾女……綾女…」
「左近か…。
ふ、こんな傷はなんともない。奴の爪がこれほど
鋭いとは思わなかっただけだ。」
「綾女、おまえはまだ旅を続けるつもりか?」
「この国のすみずみに逃れた妖魔がいる。
その最後の一匹を狩り出すまで、やめることはできぬ。」
「それでおまえはいいのか。傷つき、疲れ果て、
憩いの地すらももたずにさすらうだけで…」
「言うな、左近。
私の中に竜馬どのがいる。兄がいる。
桔梗さんも、佳代さんも…
そしておまえがいる。
私に憩いの地があるとすれば、ここよりほかにない。」
「そうか、綾女。行くがいい。」
「う、うぁ、あっ…」
綾之介と名乗った若者の姿は、小屋を出た途端、
朝靄にまぎれて、たちまち見えなくなった。
のちに文禄元年と改められる天正二十年十一月。
太閤秀吉の権勢は朝鮮にまで至り、
徳川家康は江戸城にその身を潜めていた。
関ヶ原の合戦は、これより八年の後である。
だが、再び影忍を見たものはなかったという。
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